Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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私の友人の綱覇佳秋氏(以下「綱覇」)との対話 2015/9/25-9/27
永澤 護·2016年7月19日火曜日
綱覇:パースのabductionが、ビジネスで言うところの仮説検証の仮説主義とどこが違うのかわからなくて本気で困っています。
私:パースの定義が元ネタというだけでしょう。 1839生まれですね。
綱覇:年代が違うのはそれはわかります。ビジネスの現場では、仮説検証、仮説検証とよく言われるのですが、その場合の仮説とは、因果関係のロジックとかには意識がいってなくて、単に再現性のあるパターンを見つけろってことなんです。これってパースがAbductonと言ってたことと同じに思えるんですが。どこか違いがあるんでしょうか。 ちなみに、元ネタがパースというのはありえないと思います。古今東西パースに興味があるビジネスマンやコンサルタントなんて、よほどの変わり種しかいませんし、そんな人はビジネスの流れなんて作り出せるような地位にはつけませんから。 なので他人の空似的に同じなのかどうかが知りたいのです。                                
2015/09/26
私:おはようございます。パースの初発の定義とは、「プラグマティックな意味があると考えられるどのような効果を我々の概念の対象とするかを検討する。そうすればこれら効果に関する概念は対象に関する概念の全体である」ですね。これはいかような難易度レベルにでも変換できますし、なかには人生の指針あるいはマキシム的なものにしている人もいるでしょう。最もグロテスクな例としてはネオコン的な人たちが該当するかもしれませんが、一般庶民においてはまああり得ないでしょうというのが最初の私のコメントです。処世術的には古今東西似たようなものがさまざまな表現の難易度レベルであったでしょうが、西洋文化圏内の最初の明確な定式化としてパースのものがありさまざまな形になって拡散したものの源流になっているだろうということです。無論パース自身を読んでいることを元ネタと呼んでいるのではないのでその点は誤解しないようお願いします。私がそう取ったのがもしかして誤解かもしれませんが(笑)。アブダクションに関してはアメリカのビジネス界などでの再評価が行われているのは当然のことで明確に源流だといえるでしょう。十年近く前に今さらながらにワークショップで**さんがその流れを受けてアブダクションと声高に言っていましたが、その段階では氏はパースが源流であることにいまいちピンときていなかったことを想起します。綱覇さんの今の状態がそれではないのでしょうか? もちろん私がすぐにパースについて言及したところ**さんはパースに当たり始めましたが。ところでアブダクションは単に再現性のあるパターンを見つけるところがポイントなのではなく、そこから隠されているかもしれない因果システムを発見するための仮説を「発見的に構成して」その仮説からの演繹が可能かどうか思考実験するとともに実際に実験してみよということです。 実はこれはパースがまったくの創始者ではないのですよ。古代仏教論理学に先駆けがあります。インド人はやはり飛び抜けた天才がそろっています。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%80%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3 このwikiにもありますがアリストテレスも似たようなことをアパゴーゲーと呼んでおりそれのギリシア語訳がアブダクションですね。パースはアリストテレス大好きの人です。現代人はこちらのタームの方が身近でしょう。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%82%B9 ちなみに古代インド仏教論理学でもパースでも(つまり科学においても)「隠されているかもしれない因果システム」の部分ははずせません。仏教タームでは「不昧因果」(因果をくらまさず)です。つまりあくまでも世界の事実的実在(諸法実相)を否認しないということです。 綱覇さんの「因果関係のロジック」は形式論理学的な因果性に限定したものでしょう。そこから観るとアブダクションは一時的な逸脱なので。しかしこちらの方がその後の科学論の主流です。古典ではクワインなど。 もちろん事実的実在とは現象界のことです。それも「空即是色・色即是空」ですが。       
2015/09/26
綱覇:「アブダクションは単に再現性のあるパターンを見つけるところがポイントなのではなくそこから隠されているかもしれない因果システムを発見するための仮説を「発見的に構成して」その仮説からの演繹が可能かどうか思考実験するとともに実際に実験してみよということです。」なるほど。おかげでだんだん霧が晴れてきました。この定義だと、ビジネスの仮説検証の仮説主義とまったく一緒ですね。強いて違いをいうとすれば、会社は階級社会なので、三下社員には「演繹が可能かどうか〜云々〜」は求められていないところです。逆に言うと三下以外には求められていて、それができない人は永久に三下にとどまることになっています。私が「因果関係のロジックとかには意識がいってなくて」と書いたのはそのためです。命令を下す方は、「隠されているかもしれない因果システムを発見するための仮説を「発見的に構成して」その仮説からの演繹が可能かどうか思考実験する」ことは暗黙の了解で意識はそこにはあてません。その暗黙の了解をうけとったか受け取らなかったかを命令者はだまって見ていて、本人へのフィードバックなしに(能力とは別の理由でエリートコースにのっている社員は例外)査定するわけです。パースがまったくの創始者ではないというところも納得です。私は古代ユダヤ教のミドラッシュにその起源を感じていました。 「形式論理学的な因果性に限定したものでしょう。そこから観るとアブダクションは一時的な逸脱なので。」はおそらく後件肯定の誤謬のことを言われていると思いますが、そのとおりビジネスでは、そこに意識を合わせることができる人が三下から抜け出るわけです。ただし、会社の上がり方は複数あるので、社外から見てあんぽんたんな人が多く偉くなっているので例えば**さんからはそう見えないというところがあります。ものの見方・考え方を武器に出世するコースはコースの中のたった一つのパターンにすぎませんから(そのわかりにくさが面白くもあり疎ましくもあるのが会社人生です)。 さて、**先生が今さらながらに新しい近代としてAbductionに注目したのは、きっと先生が古い近代の中で闘ってきた人だからなんだろうと、永澤さんからのコメントで思い至りました。 私にはそして私がみたところ永澤さんにも「古い近代」に対してそれほど思い入れが無い。だから「ことさら」「今ごろなぜ」感があるのだと思います。 あ、そうそう、ITビジネスの世界ではアブダクションは聞いたことがありませんが、ヒューリスティックは流行語で1日に5回ぐらい聞くときがあります。プラグマティズムから逃げられなくなったというのはそういうITビジネスの現場にいるということが原因です。以前にかいた通りWEBもGoogleもトップや開発者はユニテリアン信仰を表にしていますからなんとも因果な職場環境です(笑)。 で、私の目下の問題意識は、Abductionで求められる隠れた因果律の探求は、人間のコミュニケーションに必要だからか否か、です。というのも、会社で、三下以外が仮説検証の裏に単なる再現性のパターン以上の因果律を見つけることを求められるのは、因果律が経営幹部との唯一のコミュニケーション手段となるからです。逆に言うと、経営幹部とコミュニケーションする必要が無い、ホワイトカラーの職場がAIに大幅に委譲された環境では、三下とは別の意味で因果律が求められなくなるのでは無いか、それがビックデータ+AI社会(例えば波動方程式マーケティング社会)の本質では無いかと考え始め、プラグマティズムを押さえておこうと思った次第です。 **先生の新しい近代論はそこまで射程がとどいていないような気がするのは私の読み込みが足りないせいばかりとは言えない気がするのですがどうでしょうか? * *先生が古い近代に立脚して新しい近代を論じる人であるがゆえにということです。
私:私も同意見です。面白いテーマです。
綱覇:おお。嬉しいですね。
私:因果律が求められないのは古今東西の被支配階級には共通でだからこそ神官階級以来の支配階級には厳しく因果律の理解が求められたのでしょう。 近代ならカントの必死の努力ですね。ヒュームのままなら体制崩壊ですから。
綱覇:そこのところもう少し詳しくお願いできますか?
私:**さんが主観からと書いていましたが主観からなら本来因果律は言えないはずです。ヒュームは主観からなら因果律は単なる習慣としての認知に過ぎずそれ自体無根拠とした。実はアブダクションを先取りした先進国英国ならではの発想です。しかし後進国プロイセンのカントはアブダクションの先取りとはとても受けとれず来るべき統一国家の体制の土台そのものが堀り崩されたとたまげてしまったのです。そこで地動説のコペルニクス転回にあやかり因果律を主観レベルの習慣ではなく先天的な認知システムとしたわけです。**さんが地動説にこだわっていましたがヒュームとカントの違いを認知しているのか疑問です。
綱覇:私が知識がなさ過ぎるからかもしれませんが、そのヒュームにはクワインを感じます,誤読ですか? 「主観からなら因果律は単なる習慣としての認知に過ぎずそれ自体無根拠とした。」に2つのドグマの否定との共鳴を感じてしまったのです。
私:分析哲学における科学論的な流れの最大の起源の一つがヒュームでしょうね。
綱覇:ああ、どうもありがとうございます。理解できました。
私:ヒュームはドゥルーズの出発点でもあります。 ヒュームは二十代後半迄にあの仕事をやったのだから超人ですね。 ただしヒュームは(ヘーゲルも)、人種主義という基本的なイデオロギーから逃れられなかった。それどころか「新大陸」における数千万単位の超大量虐殺を率先して正当化しました。彼等の「哲学」の機能はその程度のものであるともいえます。 しかし仏陀の徒として言えばヒュームもアブダクションもはるか仏陀以来の常識に過ぎません。
綱覇:ですよねえ。ビックデータもAIも神の問題も仏教者には既視感があります。 世親の唯識とか精神分析より優れてると思いますが。
私: 精神分析、システム論的認知理論、さらには受動意識仮説などを同時に先取りしているような実に奇跡的な実践理論です。 親鸞も日蓮も唯識など常識だったんですがね。
2015/09/27
綱覇:実は5日ほど前にもう一つのペンネームでひっそりこんなblogを書いていました(url省略)。昨日のやりとりで、ビッグデータ+AIはカントを殺すのかと言う命題がこのblogの整理として発見出来ました。
2015/09/27
私:井筒俊彦氏のトレーニングは初耳ですが、これは道元禅の流れではないですね。曹洞宗の禅師がやっていたとしても逸脱あるいは亜流です。むしろこれは真言宗的トレーニングです。道元自身は間違いなく否定します。
再度強調しますが上記「逸脱あるいは亜流」と書きましたが訂正でむしろ道元禅では「あり得ない」とまで言えます。
後は無論これですね。「そもそも因果律は人と人とのコミュニケーション以外に必要性があるのかという問い」 これこそ人々が忘却しているものなのですね。
ベトナム人臨済僧のハン師のgoogle本社でのリトリートが2011年です。といっても原初の仏陀以来の呼吸と気づきの瞑想と唯識がベースです。
それと言語的にあるいはアルゴリズム的に定式化されているので「直観」ではないと短絡して理解している人間はだめですね。道元こそ言語表現の限界を人類史上誰よりも突き詰めたのですから。
 ちなみにハンは近々死ぬ可能性が高い。そこで危惧されるのは、第一にハンのポテンシャルがどうしても欧米人には矮小化されてしまい受容されること。実例はいくらも報告されています。第二にハンが臨済僧であり実に偉大であるが道元、空海のフォローを(公的には臨済僧ということもあるのでしょうがあるいは必要ないものとして)避けている節があることです。
道元、空海のポテンシャルをどう21世紀以降に継承展開するのかが課題になります。

綱覇:ハンについては『アップデートする仏教』をはじめさまざまな方々が広めていますので知っていました。もちろんシリコンバレーとの関係も(同じ業界ですから)。ただ、著作は読んだことはないです。今度読んでみます。
「そもそも因果律は人と人とのコミュニケーション以外に必要性があるのかという問い」についてはハンはどう言っているのですか?

私:まあ仏教なのですべて因果律だろうということですよね。 現在では量子レベルをも含めたものになりますが。
井筒俊彦氏についてはwikiだとこうですね。「父の井筒信太郎はオイルマン。また、書家で、在家の禅修行者。坐禅や公案に親しんで育つ。」それならわかります。
綱覇:話をもどしますが、ユニテリアンからは、すべては因果律というのはドグマに見えるでしょうね。そこを乗り越えられるでしょうか。乗り越えることが可能だとしたらユニテリアンからでしょうか仏教からでしょうか。それに回答が出せる場合のみ日本がキーになるのではないでしょうか。私は(永澤さんの私への見立てに反して)期待していません。浄土真宗ですから期待は無意味なのです。 阿弥陀仏の救いを期待する浄土真宗者は誰もいないという意味で。
私:阿弥陀仏の救いを期待するですが、一般に「救いを期待する」というのは禅にも皆無ですね。
綱覇:そこがキリスト者との断絶なわけです。そこを乗り越えられるか。
私:乗り越えられていますよね。仏教徒にとっては最初から。それを認められるかどうかでしょうが。私は仏陀の徒なのでそもそもその問い自体を直ちに認めることはありませんが。
綱覇:乗り越えられた状態というのは、キリスト者が「すべては因果律というのはドグマに見える」からの解脱をキリスト者であることを捨てずに達成する状態のことを言っております。仏教者からの乗り越えとはそれを仏教からの知恵でキリスト者を跳躍させること、キリスト者からの乗り越えとはそれをキリスト者自らの知恵で達成すること。このように問題設定しておりますので、まだ何も乗り越えられていないというのが私の認識です。
私:その意味なら何も乗り越えられていないし多分無理でしょう。 いずれにしても仏教の因果律は極度のシンプルさと複雑さの混合体です。
綱覇:核兵器に終末思想と世界の生殺与奪はキリスト者が持っているところがやっかいです。最近はそれにシンギュラリティー思想が加わって時間的期限が2045年と設定されてしまいましたのでよけいにやっかいです。
私:日本人第一線の研究者は最近のインタビューで人工知能は人の手から完全に離脱できないと言っていましたが結局問題は政治ということでしょうかね。
つまり行為の因果性から完全に離脱できないということです。縁起的な宇宙において。汎用性人工知能であろうが超知能であろうがすべてはその宇宙へと取り込まれる。
そもそも「キリスト教者」が問題でなないという仮説もあるようですが。

綱覇:方法論については、仏陀自身が彼岸にわたれれば、船は舟でも筏でも丸太でもなんでもよいと言っているので(たぶんスッタニパータ)、正しい禅の方法でなくても井筒俊彦を形成できたのでよいのではないかと僕は思っています。
私:そうですね。 ベルの不等式の破れが実証されたことで素朴な「実在論」は否定されましたが、量子情報の相関:もつれ(エンタングルメント)は普遍的に認められまし た。仏教的に言えば自性無き空すなわち縁起的宇宙の肯定ですね。昨今の現代思想の紋切り型である「非意味的切断」はここではサバイバル不可能です。「非意味的切断」が只の戯論または戯れ言に過ぎないのは「神の絶対的意志」がそうであるのと同じです。つまり「非意味的切断」は<一神教システム>のゴミ箱に回収されるということです。


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